サルが戦車に入るぞ、エラいことになるぞ!

アンダーグラウンド』@吉祥寺バウスシアター 

なつかしいな、シアターN渋谷。3回見た。

 

で、確かバウスでも1回、DVDで1回見たから、今回が6回目かな。

 

最後に出てくる「この物語に終わりはない」って言葉、よくある「それでも人生は続く」みたいのと似てるんだけど、この濃密な2時間51分、激動のユーゴの歴史を見せられた後では重みが違う。

「隊長は?」「祖国だ」のやりとりに滲み出るように、自国が他の国々と地続きの大陸に住んでいて毎日異民族と接触して自分は何人だとアイデンティティを意識せざるを得ないような人々にとって祖国って特別なものなんだなあ…。ほぼ単一民族の島国に暮らす自分からすれば実感はあまりないが。海外旅行した時くらいか…

「この物語に終わりはない」、バウスの終わりにも重ね合わせてしまった。

戦争がなかったら、彼らは一家離散せず、幸せな生活を送っただろうか。いや、過去にたら・ればはない。戦争も含めて彼らの人生なのだ。これはフィクションだけど、幾多のユーゴ人が彼らのように戦争ありきで激動の人生を送ったんだ、ということが立体的に想像できる。

相変わらず、好きな台詞。「サルが戦車の中に入った。エラいことになるぞ!」うーん…すげえ強烈な皮肉。

最初から最後まで物語のトーンをつくる陽気なジプシー音楽にしびれる。音楽があると、みんな笑う。笑わざるを得ない。かなしいひとがかなしい顔、つらいひとがつらい顔をして生きていく決まりなんてない。ふと、人間の根源として、あくまでも音楽というものは苦しい暮らしを生き抜くために存在しているのかなあ、と思った。

好きなギャグシーン。(一応、監督が意識したジャンルとしてはコメディらしい。)全体的に愉快でおかしいんだけど、実際の悲劇を基にしてると思うとどうも全部笑い飛ばせず、細かい部分だけど、マルコが劇場で客席のおばさんの隣でギャーといっしょに叫びキスしちゃうところ(ほんとその場のノリで楽しく生きていくテキトーな性格だな!)とクロがイヴァンを探して河に潜ったら魚の網に入っちゃうところはとてもおかしかった。

あと、反復が目についたかな。マルコ、クロ、ナタリアが3人まわりながら歌うところを下から映す、背中合わせに紐で縛られたクロとナタリアが逃避行する、マルコの弟イヴァンが首を吊る(一度目は失敗、二度目は成功)、は、それぞれ2回ずつあった。ああ、またやってるのね、と。今は過去とつながってる、ってことを意識する。

マルコは戦争がなかったら名劇作家になれたのに、ともらすが、あの何十年にも渡る壮大な嘘こそ立派な作品である。いや、戦争があったから、そちらに創作の能力を発揮したわけであるが。そう考えると、詐欺師の部類は並の小説家よりもすぐれた創作作家ということになるか。歴史も人生も語る人によってウソにもほんとうにもなりうる。劇中映画の撮影シーンを見ていて、そういえば「映画」もウソだよな、とふと思い出す。

悲惨な歴史さえ見せ物になりうる。相変わらず、映像と音の洪水、サーカスのような映画だと思った。爆音、なかなか心地がよかった。

 

英国発お屋敷愛憎劇にハマる

http://www9.nhk.or.jp/kaigai/downton/

ドラマ『ダウントン・アビー 華麗なる英国貴族の館』

 

おっおっおもしろいよぉぉぉ。

録画してた1、2話観た。

貴族同士の愛憎やかけひきの部分が肝だったりするのですが、それよりも、使用人たちの悲喜こもごも、職務をまっとうする姿に心を打たれるのであります。なんていうか、仕事に悩んでいる今、というか、正直無気力モードに突入している今、誇りを持って仕事をしている人を見るとぐっとくるものがあって…。その感情の正体がうらやましさなのかうしろめたさなのかなんなのかは判断がつきませんが。というかね、「執事」はもちろんそうだと思っていたけど、「貴族」も立派な「仕事」なんだよね。金持ちには金持ちの、貧乏人には貧乏人の、その人なりの大変さがあるのだなあ、と思い知った。

 

自分からはかけ離れた世界の上流貴族のお屋敷ものって面白いよね。そのほうが中途半端に自分と近い世界を見るよりもファンタジーになるというか。自分の中の少女的な「憧れ」ボルテージが上がる…!日本の財閥とかのお屋敷もの(たとえば「犬神家の一族」や「華麗なる一族」など)もけっこう好きだけど、貴族の本場英国が舞台で、美術もすごくって、一定のレベル以上にならないわけがない。だって、この人たち、身なりとかだけじゃなくて「精神」が貴族なんだもん。企画・脚本も貴族出身者が手がけたらしい。お金はたくさん持ってるけど心は貧しくて教養もないちょっとした小金持ちの話なんかはよくあるけど、そういうのと違うもんね。先進国の現代小説などは、格差がなくなってきてるから(わずかの成金と大多数の総中流以下)そういう意味でのドキドキした物語はなかなかないってことだね。そういうものを求めるなら、古典か。シナリオの講座に行った時も、「身分の差がなくなったこと」と「携帯電話の登場」がドラマ(主に恋愛というジャンルの)をつまらなくした大きな原因のひとつである、と講師が言ってたっけ。(身分の違いが恋の大きな障害にはなりえないし、「君の名は」で携帯があったらあの待ち合わせでの度重なる不幸な偶然は起こらない。)

 

インドなどのアジア諸国行った人に、身分があるからこそ、自分はこれをやればいい、こう生きればいい、と、あっけらかんとわりきって生きている人もいる、そういう世界もある、と聞いた。中途半端に自由だとか平等だとかをすべての人間が持っていると言われているのに実際は必ずしもそうじゃない今の世界は幸せとはいえないのかもしれないね。自由の牢獄!ブログ書いてるのになんだけどさ、インターネットなんて諸悪の根源ですよね、、広い世界を見ることができ、一時的に万能感が増したとしても、それは虚構であり、結局、何者にもなれない自分を思い知らされて絶望するだけなんだもの。だったらね、もっと昔の時代みたいに、広大な範囲の知らなくてもいい情報は知らないまま、生まれてから決まった場所で決まったことに一生懸命従事して汗を流して毎日自分の身の丈にあった喜びを得て一生を終えるほうが幸せで健全なんじゃないかなあ、とか思う。「人間はアイスクリームを知らなければ、アイスクリームをほしがらないのです。」そういう意味では、この間見た『ブルージャスミン』のジャスミンなんかもっとも不幸だよね。違う世界を知ってしまった人。

 

話がそれましたが、『ダウントン・アビー』、一庶民から見るとひじょーにきらびやかでワクワクする世界なわけですね。3話以降も楽しみです。

とっても格調高いお屋敷で使用人の細やかなルールも厳しく決まっているため、私なんか勤められたとしてもその日のうちにクビだろうなあ…とか妄想していました。笑

 

このブログは当初映画に関してだけにする予定でしたが、ドラマなども面白いものがありますので、幅広い範囲での映像作品を見た記録にすることにします。というか、映画に限らず、面白いお話が好きなので、何か見たり聞いたりした時の忘備録にしていければ。(本も含めるか、迷う…。)

 

映画女優・前田敦子を見る

 『Seventh Code』 @吉祥寺バウスシアター


ウラジオストクの観光映画として見てもいいかも。なんか、日本に似てる。気がする。極東だから?さびれた北海道、みたいな。
黒沢清の映画はやっぱり音だなあ、と再認識。「映画」の半分は音だとあらためてつよく認識する。音で不穏さは出せる。音で観客の感情をコントロールできる。安易な手段になりかねないが、うまくやれば極上のものになる。人間の知覚とは曖昧なものだ。その正体がとるにたらないものだったとしても、それが得体のしれないものである限り、簡単に、怖くなることができる。黒沢清は五感に訴えかける映画を撮るひとだなあ、と思う。前田敦子のためのPVでもあるからかコンパクトな映画で筋書きもシンプルなんだけど、前半の追う女と追われる男、後半の追う男と追われる男の活劇のスリリングさはさすが!と唸りました。実に映画的なカット割、カメラの動き。

途中わかりやすい伏線があったので(観光客のはずなのに、ロシア語普通にしゃべれたり、扉のパスワード知ってたり)まえだあつこの最後のほうの行動は読めたけど、画面の中を縦横無尽にうごきまわる身体の躍動はよかったね。だけど、あれは運動できない人の身体だな。キックとかはいいんだけど、走るところが…運動やってきた人間から見ると物足りない。ニブすぎるんだもん…。いくら音で強そうに見せてもね~。
レストランの斎藤さんの結末、フラグはあったけど、かわいそう。前田敦子のためにがんばったのに…いや、自分のためにがんばったのか。市役所の健康保健課から世界にとびでたけど、日本にいちばんちかいウラジオストクに店をやるあたり、斎藤さんの思い切れない感じが出てる。でも、平凡な斉藤さんにとって、自分にとっておそらく人生はじめてで人生最大の冒険にチャレンジすることができたので、ああいう結末も不幸ではないのかもしれないな、とふと。小市民なので、本筋とはあまり関係ないですが、ついつい斉藤さんに共感してしまうのであります。

前田敦子そんなに好きじゃないし(やはり顔が…)、最盛期のAKBの活動にもほとんど興味を持たないまま気づいたら引退していたという感じだったのだけど、不穏で不思議な物語にはあのファニーフェイスはけっこうハマるなあと思った。

 

爆音映画祭のシークレット上映なのに、けっこう席があいていた。まえだあつこファンってけっこうすくないのかしら。AKBをやめてから減ったの?それとももともとすくないの?それともAKBファンと映画ファンの層が違うからこの上映に気づいてないだけなのかな。

タラちゃん節炸裂

 

5月22日、木曜日。

デス・プルーフin グラインド・ハウス』@吉祥寺バウスシアター

 

爆音で見ました。

確かボランティアやってた年(2008?)に見た大量の作品の中のひとつだったと思う。

その時、初めてで、なんだこの映画めっちゃ面白い!!!と興奮してですね。

 

見るのは4回目か5回目かなあ。

久しぶりに見たのだけど、何が起こるかかなり知ってるせいか、前に興奮した時ほどの驚きとか喜びは思ったほどなかったけれど、やはり、ラストのせり出てくる「THE END」の字はサイコーだな、と思った。ってか立場が逆転して女の子たちが車サイコパス野郎を追いかけ回しはじめるところからが最高、そこから高まってく。いや、もっと前の前半のだらだらしたパートも、後半の爽快感のためにあるのだから、全部最高ってことだよね、結局。

あとねえ、今回の爆音映画祭のプログラムの中でもっとも身体で爆音を感じた作品だったように思う。タランティーノが選んだノリのいい音楽がかな、とにかく、かつての爆音上映で感じたおなかの振動を今年はじめて本格的に感じた!

ラストの、バカバカしいまでの、あっけらかんとした、潔い終わりかた。ほんと最高だよ。劇場、案の定、拍手おきてました。それだけでうれしくなっちゃって見に来た甲斐があったと思ったね。前にバウスで見た時も拍手があったな。確かに拍手したくなる終わり方であるんだけど、前に見に来てたのと同じ客がけっこう多いのかな(笑)。最近の日本映画は暗転で終わること多いけど、昔みたいに巨大な赤い筆文字の「終」がぐぐぐと出てくるっていうのあってもいいのに、と思う。

 

岩井俊二祭@目黒シネマ

 

岩井俊二の映画を2週に渡って、堪能した。

彼の作品は大学1年の時に『リリィ・シュシュのすべて』を見ただけで、なーんか構図とか色づかいとかやたらおしゃれでとにかく暗い話、ってぼんやり覚えてただけなのですが。今回見て、ディティールまでじっくり堪能して、ほんとよくできてるな…と感心いたしやした。

 

5月21日。

リリィ・シュシュのすべて』

蒼井優がめっちゃよかったな。壊れそうなのに元気っていう演技が。正直今までそんなに好きじゃなかったけど、若い頃のめっちゃいいわ。『花とアリス』もよかった。

内容。えっとね、いじめに「理由」とか「大義名分」とかないんだよな…と思った。ある日、突然、大した理由もなくはじまり、大した理由もなく終わるのね。大人から見たらとるにたらないものだし、狭い世界。でも、そこにいる14歳にとっては、そこが世界のすべて。外から見たら楽しそうなんだけど、逃げられない空間、ああそっか、そういえば中学って地獄だったな、って思い出した。立派な戦場なのに忘れてら。過去を覚えてたっていいんだ。と岩井映画を見るたび思う。後から笑い話にできることも多いんだけど、当時は地獄なんだよ。
そういえば、よく映画を観に行く友人と食事した時に過去(学生時代の嫌な記憶)にとらわれている話をしたけど、だいたいは笑ってとりあってくれないんだよな。そんなの、だいじょうぶだよ、だって、ちゃんと大人になってるじゃん、って。わかってないわ。そういう人生もある、って認めてくれるだけでいいのにな。っていうか、共感を求めちゃいけないんだな。そういうことがあって、仲のいい友人にすら、過去にこだわる姿勢を見せてはいけないんだ、と自覚したけど、自分の中には大切に持っていよう、過去のことを考えると馬鹿みたいに感傷的になる自分も阿呆くさいけど、自分だけはちゃんと認めようと思う。

 

スワロウテイル

九龍城に行ってきた感じがするぜー。熱風がふいてくるのを感じられるような映画だった。三上博史かっこいの。あと、伊藤歩の目がいいーっす。

 

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ゆるふわ台湾映画を見た

5月18日。

『狼が羊に恋をする時』@新宿シネマカリテ

カリコレ(シネマカリテ1周年のおまつり)にて。

台湾好き(といっていいのかどうか、にわか「好き」だが)が高じて見に行きました。日本未公開ということなので!

台湾の若者の今を感じられるものだし、アニメが時たま入って、ほほえましくてかわいいラブコメ映画だけど…うーん、ストーリーが物足りなかった…。パンチがないっていうのかな。ゆるーく問題が起こって、ゆるーく解決しちゃう、みたいな、都合のよさっていうか…。これはまあ公開されなくてもしょうがないような気がしないでも…でも、宣伝次第で人は呼べそうだな。こういうゆるくてかわいい映画求めてる女子はたくさんいるし。

いちばんテンション上がったのは、「セデック・バレ」のモーナ・ルダオ役のおっちゃんがタンメン屋のおじさん(実は牧師)として登場するところですかね。

「あの頃、君をおいかけた」がよかったから(狼が〜の主演と同じ人)期待しすぎたかなあ。うーん、ゆるすぎる。「藍色夏恋」に並ぶくらいの青春映画が見たいわん。

 

カリコレは、あと、「カリフォルニア・ゾンビ逃避行」あたりを見たいな。

 

あ、シネマカリテで売っている桔梗信玄餅アイス(カップ入り300円)うまいですよ。

暗闇で食べると、いつ餅が出てくるかわからず、急に出てきたりして、宝探し感があってなかなか楽しいよ。笑

 

好きな映画館がどんどん閉館していってる今、新しい映画館であり且つミニシアター系のカリコレは貴重な場所となりそう。新宿ミラノ1(巨大スクリーン)もなくなっちゃうなんて…。しばらくは新宿ならシネマカリテだな。(行きか帰りにベルク行くと満足感が倍増。)あと今日改めて思ったけど、椅子のクオリティが高すぎる!心地よすぎる!よくいく映画館の中でかなり上位にくる…。下手すると眠くなっちゃうわけですけどね。笑

 

映画館ってひとりでいくことが多くて、自分にとってかなりリラックスできる場所で、割と無防備な体勢でいることが多いのだけど(知り合いと会うことはほとんどない)、今日は会社の先輩と遭遇してすこし動揺してしまった。私「…こっ、こんにちは」先輩「おっ…チョコレート・ドーナツって良さそうだよねえ」私「ああ…そうですね。見たことがないのでわかりませんが」…なんだろう、動揺して意味のないことをオウム返しに言ってて…本当に社会性ないわ。まあいいや。先輩は「チョコレート・ドーナツ」見るようだった。休みの日は会社のことを1ミリも考えたくないので会社関連の人と会わないのがベストなのだけど、まあこういうこともあるんですね。笑

 

 

 

『ブルージャスミン』&『ウィズネイルと僕』@吉祥寺バウスシアター

見てきましたよ。(爆音&ライブ以外の、バウスの最終上映作だね。)

jazzには全然詳しくないけど、前に入門したいなと思ってマイルス・デイビスジョン・コルトレーンビル・エヴァンスの輸入CDを数枚買っていたことを思い出したから(開封していないのもあった)あるかな〜と思って探したんだけど、「ブルージャスミン」で主人公のジャネット(ケイト・ブランシェット)が夫と最初に出会った店でかかっていたという曲blue moon は入ってなかった…。まあウディ・アレンの映画を見た気分、適当にjazzのCDをかけながら、これを書きまするよ。

 

ブルージャスミン

幸せになるために見栄を張り続け、嘘を重ね続ける、イタすぎる女性、ジャスミン。観客の誰もが感情移入しない嫌な女であり、決して友達になりたくないタイプ。でも彼女は悪い人ではなく自分の幸せのためにとても純粋で正直に生きているだけだと思う。観客に余計な感傷や同情を抱かせないためにジャスミンの生まれ育ちなどにはほとんど言及されていないけど、里子ということなので、彼女の考え方は、彼女なりに力強く必死にこの世を生きていく手段として、選んだ価値観だったのではないだろうか。この映画、同性なら胸に痛みを感じずにはいられないと思う。同族嫌悪っていうか、この映画を少しでもイタいと感じたら、ジャスミンは自分なんだろう。普通に生活してる人はジャスミンの部分は出さないでいるだけで、実は持っている。目を背けたいのに見たい、怖いもの見たさというのだろうか。2時間弱、決して気持ちのいい話じゃないのに目が離せなかった。ケイト・ブランシェットの演技凄かった。40代女性の弱さ、したたかさ、欲望…。同じ嫌な女の顔でも、種類がものすごくたくさんあってぜんぶ細かく違ってて。目力がすげえ。恐ろしい顔…感情がいまにも弾けそうでぎりぎりのところで留めている顔…見ててずっと緊張状態だった。アカデミー主演女優賞とっただけのことはあるよ、さすがです。見終わって、どうもうしろめたい気分になるのは、人間のというか自分の業が白日の陽の下にさらけ出されたという感じがするからだろうか。どこで笑ってやろうかな、って身構えていたけど、見事にどこも笑えなかった!現在の破滅と過去の破滅を平行して描く(最初に過去の破滅を説明しきらずに、過去も現在も破滅に向かってストーリーが進んでいく)という巧みな脚本も、さすがだった。よりスリリングに感じるからね。映画の楽しみってストーリーだけじゃないんだよなあ、って思わせてくれる映画でもありつつ、ストーリーもちゃんと面白い。円熟の味、ウディ・アレンすごいっす。

 

「ウィズネイルと僕」

ええもん見たーっ!って感じ。友だちとのたあいもない時間は一瞬であり永遠なんだと教えてくれる。

萌えなんでしょうね。この関係性は。「僕」とウィズネイルの関係性は。きっとね。「友情」って肩肘張らないで生まれるものなんだな。ウィズネイルって自分に都合の悪い時は逃げたり、人に責任を押し付けたり、見栄っ張りだったり、いつも強がっているくせに実は怖がりだったり、つまりすごいひっどいやつなのに、とてつもなく魅力的なんですよね。やつと過ごした日々はそのどれもがひっどいものでひとつひとつは大したことのない小さなエピソードの積み重ねなのに、鮮烈に残る。「やつ」と「僕」が同じ場所に存在してた、ただそのことが「永遠」なんだね。半自伝的作品と語る監督、パンフによると、「仲間と苦しい憂鬱を分け合った時間は、その時は苦しさしかないけど、後から思い出すと、とても楽しい時間になったりすることがある」って。確かにそういうことはある。私は高校時代のバスケ部の経験なんかそういうものに当たるかも。

さんざんテキトーに生きて友情もテキトーだった(そういうふうに見えた)ウィズネイルとラストのウィズネイルの態度のギャップときたら。かっこいいですよ。雨でふたり傘さしてね。主人公を見送ったあと、シェイクスピア劇の台詞をつぶやくんですよ。

いやあ、よい映画を見ました。(モンティがらみのシーン面白すぎた。リチャード・グリフィスかわいい…。)

 

 

映画を見てる最中は理解できなかったけど、パンフ読んだ後の理解によると、ウィズネイルと僕が出会ってから別れるまでは10年間。わたしがバウスと出会ってから別れるまでもほぼ10年くらいだなあ、とふと、レイトショー後の閑散としたサンロード商店街を歩きながら、思ったのでした。好きな映画館がなくなる、というのは近年いくつかあったけど、そのどれもが若い自分にとっては大切な友人のようなものだったのかなあ、と。父でもなく母でもなく友人。特にバウス・シアターは特別な存在だった。(だから、こうして何度も書くし、閉館を前に通い詰めてしまう。)

 

レイトショーが終わってから、映画の余韻に浸りながら、シャッターが締まって路上ライブやってる人や自分の作品を売ってる人らがちらほらいるサンロード商店街を吉祥寺駅まで歩くのが、たまらなく好きだったなあ。それがなくなるかと思うとさみしいよ。