『ヤンヤン夏の想い出』@キネカ大森

2014年4月5日、土曜日。

キネカ大森30周年イベントということで、片桐はいりさんもぎり&トークショー付きの『ヤンヤン 夏の想い出』上映に行ってきた。これ、見たいと思いつつもDVDに手を出すのは我慢して大きなスクリーンで見られる機会を粘り強く待っていた作品(けっこう名画座でやってるんだけどスケジュールがなかなか合わなかったのとアジア映画に興味持ち出したのが割と最近で…)。んで、今回、アジア映画館時代特集でやるってことで、待ってましたとばかりに行くことに。片桐はいりさんのトークがついてるのもでかかったけど。(今回、はいりさんとの大森での遭遇は3回目。前は確か、『柔道龍虎房』、はいりさん初もぎり映画『水の中のプール』&はいりさん初出演作『コミック雑誌なんていらない』を見た。←両方とも内田裕也主演)もはや、もぎり風景が自然すぎて…さすがベテラン…。サイン&写真撮影にも気さくに応じてくれた。今回、母も連れていったのだが、思った以上に楽しんでいた。ヤンヤンも気に入ったみたい。母は割とイッセー尾形が好きなようだ。彼は母と同じ高校の1学年下だとか。トークショーには作家の原田マハさんも来ていた。はいりさんが読み上げた、30年前に淀川長治さんがキネカ開館に寄せた文章が印象的だったなあ。確か「キネカは娯楽の教室、キネカは人生の教室…映画のおかげで人生が3倍になる…映画は人生の教科書」みたいなことを言っていたと思う。

 

以下にヤンヤンの感想を断片的に。断片的なのは、SNSに書いたものをそのまま転写したからです(笑)140字以内の思考になってしまっていますね…。

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ヤンヤン 夏の想い出、めっっっちゃよい映画だった。長く余韻に浸る時間がほしい映画だった。

あの長さがいい!あれくらいないと、物語の独特のリズムに馴染んでいかない。1回そのリズムに身体を委ねることができると永遠に見てられるような感覚になる。最近、他の長い映画(『天国の門』など)を見た時にも感じたこと。長いのにそんな気持ちにさせてくれる映画と長くて飽きる映画の違いは何だろう。

ちなみに、『わたしはロランス』は面白かったけど、ちょっと飽きた。ただ、映画は確実に、長くないとできないものってあるなあ、と思った。一時、90分くらいがベストと思っていたけど、それは長いつまらない映画ばかり見てしまったせいだと思う。

世の中つまらない群像劇のほうが多いけど(特に最近の邦画…某●谷幸喜とか…あ、映画に限るけど)、面白い群像劇は本当に面白いんだなあ。このヤンヤンとか、アルトマンとか。

ヤンヤン、名台詞のオンパレードだった。メモ取りたかったけど取れなかった(というか長いから覚えきれなかった)からもう1回見たいな。含蓄のある言葉というのかな…すごく普遍的なんだけど、深くて染み入る。こういう映画を見たあとに、映画は人生の教科書だと思ったりする。

面白いカット:窓越し、ガラス越しに人の会話を写すたくさんの場面。音は別録りだとわかるけど、なぜカメラが映りこまないのか。/窓から顔を出した人。カメラはどこ?/走っていく人物を、複数の監視カメラ画面の切り替えでとらえる。/写真ではじまるとこ。悲情城市もだけど、一枚の写真の力は強い。/女の子たちをとりまき(親衛隊)のように使ってるクソ教師の頭の上に見ず風船を落とすところ。/学校の理科の記録映画で雲が雨、そして、雷になり、少女がいる…という場面。などなど。

あと、極端にひいたカメラ、というのが何ヵ所か。誰かをクローズアップしない、という演出にしびれる。結婚式だったり、ヤンヤンが校庭を走っていくとこだったり、高速道路下の高校生カップルの逢瀬だったり。あくまでも、いっこのつつましい人生にすぎない、って感じがする。

 映画(映像)でしかできないことをしてる。そういうのを見つけるとわくわくする。最後のほうの、おばあちゃんとティンティンとのシークエンスも、実に映画的な表現だなあ…と。千と千尋の神隠しもこんなだったね、「夢だけど、夢じゃなかった」的な。

映画全体にあたたかなまなざしを感じた。どんな人の人生にも、大小様々な事件が起こっている。決して生きやすくはないし誰もが過ぎ去った過去を後悔し懐かしみやり直したいと思う。それでも人は現実に折り合いをつけていきていく。そんなすべての普通の人の人生を、映画は肯定しているように感じた。

大きなスクリーンで見られて本当によかった。 

 
【邦題について考】

ヤンヤン夏の想い出」 この邦題、未見の人が興味持つには悪くないと思うんだけど、本編見ちゃうとズレを感じるね。①ヤンヤンは印象的だけど主人公ではない。実質、ヤンヤンの父と姉を中心に織り成される、ヤンヤンの親戚や御近所さんも含めた群像劇だから。子どもの映画と思い、見ない人もいるかも ② 「思い出」 という用語までいくと、なんとなく、配給側の、こう見ろ!(感動作なのだ!)と強制してくる感がある。(実際、私にとっては感動作であったが。)なんとなく、 過去の似た名前の名作にのっかってやろう感がありますね。③映画も商売しないといけないから、これで映画館へ足を運ぶ客は増えたかもしれないね。その意味で成功かもしれないけど、作品世界の独自性は題名からは伝わってこない。唯一無二の世界観、不思議な魅力があるのに、この題名ゆえそれが伝わらず、ありふれた作品だろう、とスルーする人もいて、もったいないのでは。④ヤンヤンは本編見てから原題を知り、深いな…なるほど…すげえ…と思った。原題のほうがいいと思う。でも、これをただ日本語に訳したとしても、映画を見ないと意味がわからないような意味深なものなので、アジア映画、エドワード・ヤンを見続けてる人、映画好きな人にしかリーチしないだろうな、と。⑤その点、『ヤンヤン夏の想い出 』は、もっと普遍的で、もっと多くの層に届くのかなあ…と。普段映画をあまり見ない老若男女にも。少年ヤンヤンというアイコンを軸にしたほうがキャッチーだしね。多くの人に開かれたもの、かつもっと作品世界にリンクしてるものがいいと思うけど、邦題は悩みどころだよね。⑦最近、洋画を見ては勝手に邦題を考える遊びをやってる。で、ヤンヤンについても…考えてみたの。遊びだからね…たとえばだよ…合ってなくてもご容赦を。「ヤンヤンの夏」←せめてこんななら。ちょっとした語感の違いかもしれないけど。ほか、「台北家族風景」「スナップ人生」「simple life」…センスねえわ。でもこの遊び面白いから今度誰かやりましょ。⑧一緒に見た母は「人生の裏側」と言ってた。ウム、内容的に意味は合っているが、見も蓋もない感がある上に、その映画が見たくなる感がない…。うーん、映画を端的に魅力的に伝えるって難しいんだね。そういう意味では、「ヤンヤン夏の想い出」は人生の一瞬がきらきらしてる感があるからいいのかも…。⑨既に別の映画についている邦題だけど、「普通の人々」とかけっこう合う気がする。あとは「ありふれた人生」「いくつかの人生」とか。いや、幾多の人生に向けたやさしいまなざし感(前向き感)があったほうがいいのかしら…。どんな人の人生も肯定している印象を受けたので。⑩仕事で邦題を考える案件をやったことがあるので、大人の事情もあることだし邦題のつけかたの難しさも全くわかっていないわけではないのです。ただ、入場客を増やすために映画の内容とほとんど乖離した題名をつけるのは、映画ファンにとってはかなりの裏切り行為だと感じています。一個人としては。

 

【ストーリー】

親族の写真撮影。ヤンヤン(子ども)の叔父アディ(デブメガネ)の結婚式。アディの元カノが結婚式に乗り込んでくる。座っているヤンヤンの祖母(アディの母)に「本当はあたしが結婚相手になるはずだったんです!ごめんなさい!」と叫ぶ。周囲が騒然。けっこうつきあいが長かったのに、最近つきあった妊娠した女が結婚することになり、怒っている。(アディ、二股?)祖母、具合悪い。ヤンヤンの父と姉、祖母を連れて家に戻る。父、姉に、ゴミ出しとけよ、と言う。…ちょっと力つきそうだから、この続きは今度書く。

 

東京(熱海?)で父と初恋の相手が手をつないで信号待ちしてるところと、台北で娘と初めての?恋の相手が初めてのデートで手をつないで信号待ちしているところが、重なって、絶妙なつなぎだと思った。それだけで、時間の経過、人生の重み、人生のやるせなさを感じて泣けてくる。

そして、ヤンヤンの台詞、いちいち深すぎる。なのに、8歳が言ってもおかしくないような台詞にちゃんとなってて。小憎らしい演出だぜ…。おじさんの頭撮った写真を渡しながら「後ろ、見えないでしょ。だから、撮ってあげたんだ。」とか、ラストのお葬式でおばあちゃんへの言葉を読み上げるという場面での台詞も…もう…胸に詰まる。ああ、本当にいい映画を見た。