新橋文化ってスバラシー

 

「フリークス」と「M」2本立て。

両方とも観たいと思いつつDVDでは観る気力がなくスクリーンで観られる機会を待っていたのでとてもありがたい。

新橋文化の場内の光の具合が好きだ。(休憩中のぼんやりとした白熱灯)

そして、女性にやさしい劇場!(男性900円に対していつでも800円なんだぜ)

「フリークス」のものがなしさ、やっべ…。皮肉も効いてる。白木みのるみたいな声の小人が自分をさんざんだました性悪女(健常者)に「このフリークスめ!」って言うんだけど、実際、性根はそうですよね…。この映画で描かれるフリークスたちよりも普通の人間たちのほうがよっぽどフリークス。人間社会全体がフリークスって考えてもいいかもね。最後、その女も文字通り外見もフリークスになっちゃってるしねえ…。

ブランカニエベス」と一緒にみるとより面白いかも。「フリークス」の監督はこれがヒットせず(っていうか社会的に危ないと見なされてお蔵入り?)その後日の目を見ない人生を送ったとか…。もったいない。社会的批評眼を持った傑作なのに…。

「M」!怖い!殺人犯の正体がわかるまでの予兆がまずすっごく怖い。予兆というか、起きている現象をはっきり見せないでほのめかすだけで観客に悟らせる演出。風船を買う時のシルエット、風船が電線にひっかかってる(持ち主である女の子が死んだと思う。)犯人の正体がわかって、逮捕されてからも、犯人の表情、動きが非常に怖かった。目玉をぎょろりとむくのだが、完全にイッちゃってます。この世界の住人とは思えない顔。動機がないから恐ろしいんだろうなあ。でもねえ、それよりも怖いのが、正義感を振りかざす自警団(といってもリーダーetc半分以上はカタギではなさそう)の裁判シーン。犯人を警察より先につかまえるのは、賞金目当てかと思ったけど、まちに住む自分たちの信念を侵されたと感じたからだったのか。子を殺された母だけの集まりとかなら犯人への糾弾は理解できるんだけど、まちのみんなの、悪人を裁く自分が100%正しいと思って信じて疑わない姿勢が怖い。すっごい数の労働者が集まって、じっと犯人を見てくる様子は、不気味すぎて圧巻です。妄信的、集団の恐ろしさというものを表現しているように感じる。とにかく心理的な怖さを煽る映画だった。フリッツ・ラング、お見事。

 

島のおんがく

 

書くのが追いついてないから、記事が前後するんだけど、バウス関連のことを引き続き書こうと思う。6月2日は久保田麻琴prezents『スケッチ・オブ・ミャーク』+BLACK WAXのライブ(ゲスト:ピーターバラカン)というのに行って来た。

 

宮古島の音楽の映画。

 

ワールド・ミュージックつーものというか、音楽そのものに疎いので、この日まで知らなかったけど、久保田麻琴さんの活動というのは面白いと思う。

ピーター・バラカンさんは私の今までの人生の中で見たこともないようなやさしい顔をしている人だなあ、と思った。完璧な欧米人って感じじゃないなあ、と思っていたら、日本語が流暢なのはもちろんなんだけど、アジアの血(ミャンマー)も混ざってるんだってね。

調べたら語り口もやわらかいんだけどね。

 

あ、あ、あ。すげーどうでもいんだけど、「ライヴ」よりも「ライブ」の表記のほうが好きです。素直な感じがする。「ライヴ」のほうが正しいんだろうけど、所詮カタカナの外来語なわけだし、どっちも同じはずなので。どうしても「ライヴ」という文字を見るとしゃらくせえええという気がしてしまうのである。どうでもよいことだが。

『シンプル・シモン』

 

先週、ユーロスペースで見た。

わかるわかるの連続。無理のないドラマ。映画としても、アスペルガーのことを知らない人が見ても楽しめるものだったと思う。おしゃれでポップで、ささやかに、人と人との交流の素敵さを描いている、と思う。シモンのお兄ちゃんはめっちゃいいやつなんだけど、アスペルガーのことをよく知っているがゆえに、シモンのできることを決めつけているふしがある。シモン自身にもそういうところがある。アスペルガーのことをよく知らない女の子(イェニファー)のほうが、シモンの行動を面白く許容できたりする。知識というものはいい意味でも悪い意味でも先入観というものに変化して、人の行動を縛るのではないかな、と思った。

シモンの勤める公園清掃の会社の社員は、シモン以外も癖がありそうな人がいっぱいだった。自閉症者だけを雇う会社なのかな?福祉国家のスゥェーデンは進んでるなあ。

6月9日。ロックの日。らしいよ。無垢の日とも。

 

 

『罪の手ざわり』@文化村。午前中に鑑賞。

あまりにも普通のひとびとが、あまりにもなんでもない、不条理とも言える理由で殺人に至る。抑制されたトーンで物語は進む。淡々と、淡々と。いや、なんでもない理由、というのは他人事だから、あくまでも観てる側から、か。本人にとっては十分に抜き差しならぬ問題があり、暴力という手段を用いて筋を通すという結論に至ったのだろう。その、他人事のように見る周囲との隔たり、他者との隔たりこそが、事件を引き起こすのかもしれない。『一瞬の夢』のラストシーン、突き放したカメラワークにおいても、主人公と他者との圧倒的な隔たりが浮き彫りになるのが印象的だったことを思い出す。日常においての残酷なドラマはドラマチックには起こらない。静かに起こる。普通の人の間に起きる。こういう主題を派手に描かないのにエンターテイメントとして成立させているのは凄いと思う。
チャオ・タオ演じる風俗店の受付の女性が刃物を手に暴漢に立ち向かった時、妙にかっこよくそこだけ別のジャンル映画のように見えた。なんか急に画面の感じも演技も変わったよね?カンフーアクション映画やんけ!っていう。(淡々とした映画全体に対してそこだけキル・ビルみたい。)
あと、新人の男の子の澄んだ目が魅力的なのが印象的だった。彼はいい!ジャ・ジャンクーってドキュメンタリーもたくさんやってきただけあって、新人とか素人の発掘がうまい。

パンフを読んで、チャオ・タオ(余貴美子さんに似てる。割と好きな顔。)がジャ・ジャンクーの妻だということをはじめて知る。なんだ、またそのパターンかい…。(ジャ監督が間違いなく素晴らしい映画監督だということはとりあえずおいといて)綺麗な女優と結婚するために映画監督になるというのは、映画監督になる動機としてゼロ%とは言えないんじゃないか?まあ、女優も映画に出たいから、監督に寄っていくということもあるからお互い様か…?というのは下司の勘繰りで、うん、でも、きっといいパターンなんだろうな。監督の妻が監督作品のミューズだというのは。 彼らはたぶん監督がアマチュア時代からの映画製作の仲間だろうしね。一番の同志みたいなものだろう。ただ、風俗店の客に札束で殴られるところの演出がちょっとぬるかったように思うのですが…。あれだけリアルに血の流れる痛みとか日常のだるい感じとか描いてるのに、チャオ・タオさん、明らかに殴られてないのに、殴られる前に首を振っていらっしゃる…。効果音だけが激しく、本当に殴られてる感ゼロ。ジャ監督、妻の顔は傷つけたくなかったか…。なんというか、とっさにナイフで刺すくらい逆上(決心)するには、言葉の暴力だけじゃなく、肉体的にもちゃんと殴られてないと、納得できないような気がしたのだけど…。女優魂的にもやってほしかったのですが。いや、でも、ふたつめの強盗を繰り返す男のエピソードなんか、田舎に退屈だからってことで、殺意の大義名分なんかないしね。まあ、言葉にカッとなったということだけでいいのかなあ。

ジャ・ジャンクーってジャ監督っていうべき?ジャンクー監督っていうべき?スティーブン・スピルバーグ監督をスティーブン監督って普通言わないよねえ…とすると、ジャンクー監督のほうが位置的に正解な気がするんだけど、ジャが名字なの?いろんな記事の表記では「ジャ監督」ですが。

 

昼食はマメヒコ。文化村のジュンク堂で『冥途』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を購入し、コーヒーショップでタダ券使う。

夜はバウスへ。まだ終わってなかったのよ、ライブがね。

鈴木慶一さんのバンド聴く。不思議な耳に残るきもちいいサウンド!

https://www.youtube.com/watch?v=23jfg6n75TI

なんか気に入ったのでCD買っちゃった。

というか、栗コーダーカルテットの左から3番目、右から2番目の、大柄で無口でぬぼーっとした人がいるではないかい…!しらんかった!!あの人の顔は好きですよ。MCの時間とか出てくる時とかひっこむ時とかは、ほんとぬぼーっとかふにゃーっとかしてるのに(おっさんのくせにかわいい感じ)、ギターテクめっちゃかっこいいんですけど!なんやねん!ギャップもえか!時計じかけのオレンジのイラストTシャツを着ていたよ。しらべたら、「図書館」ってなまえのバンドもやってるらしい。バンド名に惹かれる。

 オワリカラは歌よりも映像がよかったかな。
明日は本当の意味で最終日。当日券並ぼうかな。

 

 

 

小説『素粒子』 断片的な感想

 

一般的には、バスケよりサッカーのほうが観戦が面白いはずだ。観ていて興奮する、選手たちの一挙一動に身体が熱くなる、という点では。バスケはしょっちゅうシュートが入る。高度なレベルのゲームにおいては数えきれないほどの細かい種類の動きが交錯し、職人技ともいえるほどのパスワーク、ドリブル、コート全体に視野をめぐらした結果、瞬間的に判断した連携プレーによるゴール等…高度で綿密な戦略が展開されているのだが、(長年プレーした身からすると個人的にはサッカーよりも戦略は高度ではないか?インターハイ出場校に割と偏差値が高い高校が多いのはそのためだ。元々頭がましなこどものほうが高度な戦略を理解できるというわけだ。)プレー経験がなく戦略を理解しない観戦者には、ある種かんたんで単純に見えてしまうそれは、退屈さの原因にもなるだろう。特にアジア人同士のいかにも粛々としてひきしまっているけどダイナミックさに欠けるこぶりな試合などは。NBAの一部のサーカスの曲芸のようなプレーのような例外をのぞいては。

一方、サッカーのほうがなかなかゴールに結びつかない。淡々としたプレーが続くが、その積み重ねでごくたまにゴールまで辿り着く。全体のプレー時間が2時間近くある中で、ゴールに結びつくプレー時間はゲーム全体のごくわずかな時間にすぎない。しかし、それはいつ来るかわからない。だから、淡々としたプレーさえも緊張感を持って、エキサイティングに見ることができる。

緩急があるから、面白いわけだ。

人生も同じで、快楽だとか喜びだとかがひっきりなしに発生し続いたとしよう。それはもはや、快楽ではなくなる。人は同じことが続くと飽きるのだ。

好きな広告のキャッチコピーというものはすくないが、ある種の本質をついた「異常も日々続くと正常になる。」というものには感心している。(うろおぼえ…たしか『戦場のメリー・クリスマス』の宣伝コピー。)

 

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ミシェル・ウエルベックの長編小説『素粒子』を読み終わった。

読書会に参加するためという自主的とは言いがたいいささかミーハーな気持ちで読みはじめたものの、非常に興味深く、面白く読ませてもらった。

読み終わって1時間ほど経ったが、読み終わった瞬間はカタルシスのようなものがあったものの、正直、暗澹たる気持ちがじわじわと続いている。

この気持ちは、小学2年生の時にはじめて手塚治虫の「火の鳥」の輪廻転生にまつわるエピソードを読んだ時、あるいは、それ以降の人生でときおり「死」や「宇宙の広がり」について思考をめぐらした時の気持ちに、似ている。

どうも自分は、困ったことに(楽しいことでもあるが)読んだ本や映画の世界に入り込みすぎて出られなかったり、影響を受けすぎて日常に支障をきたすことがあるが、この小説も割とそういう種類のものであるような気がする。

すべてのユートピアディストピアなのかもしれない。

恋愛経験、いや、異性との関係にかかわらず、人との社会的交わりが乏しい自分にとっては、身を以て迫ってくる切実な内容であった。もっと年を重ねてからでも響くだろうが、就職して以来消費社会に従事し欲望を供給する仕事に疑問を持ち続けてきたことなども手伝って、十分今読んでよかったと思える代物であった。読みながら最近観た映画『ゼイリブ』のことも思い出す。

フランスというヨーロッパを代表する先進国が舞台であるが、まさに閉塞感が広がる一方の今の日本とも重なる。

社会に出て、「若さ」がやたら重視される社会であることに気づいたということも、この小説を面白く恐ろしく読むことに拍車をかけた。大学卒業まで、特にジェンダーの問題に興味はなかった。というか、むしろ女であることを最大限に活かして行動する知人などにはどうしても共感できない(というか、能力的にできない)ところがあったのだが、一般的な日本社会(というか先進国全般)では若さ至上主義が横行しているようで、会社に入って以来(圧倒的な男社会ということもあるが)、社会的な場では、固有の思考を持った固有の人間としてではなく、明らかにただの「若い女」として見られる(暗に「女」は「若さ」しか魅力がないというように言われる)ことをひしひしと感じる機会が多く(「若くてうらやましい」という言葉は実際に何度も聞いたし、年を取っているだけでそれ以外の要素を無視して差別発言をする者もいた)、そのような点からも興味深く読んだ。

 

「愛情」「幸福」「家族の絆」…すべて今この時代・背景を生きているからこその、「思い込み」なのだろうか?そんなものは存在しないというのか?だとしたら、さみしすぎる。つい考え込んでしまう。

まあ面白かったし、壮大な話であり、万一この話のようなことが近未来に起こるとしても、もはや今の自分は生きていないくらいは未来のことだと思うのだが、どうしても希望的な気持ちにはなれないなあ、というところである。

 

絶望の感情に行くまでの前半も読者をひっぱる物語的な面白さは十分にあったんだけど(登場人物の生まれ育ちによる人生の因果関係、こういうの好き。最後になぜこういう描かれかたがなされたか、語り手の正体がわかってゾッとするわけだけど)、最後のガラッと変わるとこ、圧倒的に違う次元に読者をあっというまに連れていくのがすごい、と思った。

 

ふああ…いろいろ「悩み」がある今ってなんだかんだ幸せなのかもなあ。とりあえず気持ちも動きもメリハリのある生活をしようかなあ。

 

 

 

 

彼らは生きている

ゼイリブ』@吉祥寺バウスシアター

88年、ジョン・カーペンター

生まれた年の映画だ。

 

見終わったあと、まちの中を歩いてみよう!

おもしろすぎる!こわすぎる!

東京は本当にいろんな人が歩いているもんね、ゆっくり歩いてる人なんか特に映画の中のスローモーションな人と同じように見えて、例の顔が重なって見えて…こっわ!映画見てない人のためにこれ以上言わないけど!笑

例の顔の人たちが通信したあとって、すべての例の人たちにこちらの姿格好が割れてるわけだから、どのやつらをサングラスごしにみても、ゆっくりギロリとこっちを見ている気がして怖い…という。映画後は、サングラスしてないのにその気分を味わえました。カメラワークが絶妙です。で、サングラスだから、効果的にモノクロに画面が切り替わるでしょ。素晴らしい映画的アイデア。ほか、音楽が素晴らしい効果をあげている。まだ何も起こってない時も、「怖さの予兆」が十分にある。ホラー映画は、いや、普通の映画は本当に音って大事なんだなあ、と思う。あと、主演のプロレスラーと同僚のメガネかけろかけたくないのやりとりでマジに喧嘩するところは迫力があり、面白かった。警官が一般人を取り押さえるシーンとか明らかに本気で殴ってなくて音で補ってる感じだったけど、喧嘩のところはあきらかに本気に見えた。メガネとかもうどうでもよくて、プロレス技見せるためのシーンなのかな…これはもうギャグだなって思うくらい長かった!笑

家帰ってテレビつけたら安部総理が映ってて、もちろん例の顔が重なって見えましたとも。タイムリーすぎて、ぐえええとなった。そして、正直笑えないし、絶望的な気持ちにすらなる。集団的自衛権うんぬんや残業代うんぬんやら。やっぱりこいつも例のやつらと契約して大金もらってる地球人なんだろか。そうじゃなかたとしても近いことしてるよなー…とある大国と、戦争で儲けるために契約してるのだから(そうとしか思えない)。

明日からすべての広告に「OBEY(従え)」が重なって見えそうだな…。それはちょっとやだけど、人(同僚とかまちゆく人とか)の顔に重なって見えるのは楽しみでもある…。壮大な嘘で構成された広告業に従事していることに辟易しすぎていたから(「いまちょうど大量消費社会を風刺しているウエルベックの「素粒子」を読んでいるから、というのもある)そういう意味でも気分にピッタリすぎた!ほんとにね、そういうことだと思う。ゼイリブを大学か高校の時に見てたら広告業界に足を踏み入れなかった気すらするが。笑

傑作。世の中の圧倒的大部分を構成する不条理のしくみが目に見えた時、やっつける!と意気込む主人公の姿は痛快だけど、やはりあまり世の中を知らず深く考えないオバカだからそういう気になるんだろう、と…。実際、自分だったら(べつに頭いいわけじゃないけど)、臆病だし、最後主人公が気に入った女性がとった行動みたいに、結局あきらめてしまう気がする…。圧倒的に強い支配者層を前にするとね…。ほんと腐ってるなあ、その考え。完全に飼いならされちゃってる、あーあ。思わず鏡の前でサングラスをかけてみる。例の顔になってないか。なんてね。…もしかしたら、世界は、深く考えないでとにかく行動するオバカが救うものなのかもしれないな。

単なるB級映画じゃない。SFホラーとしても傑作だけど、すんごい風刺劇だった。